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旅をしていると日本人の宗教に対する距離感が独特であることを強く感じるようになります。世界中の多くの国々では、一般的な人々が宗教に親近感を持ち、宗教を生活の中心に据えて人生をおくっています。一方日本では、一般的な人々はあまり宗教に親近感を持たず、宗教を生活の端に添える程度で人生をおくり、ともすればそこに非科学的なうさんくささを感じている人々もいます。 この独特の距離感は瞑想に対しても現れているように感じられ、むしろその距離感はより大きい気がします。そのためこのブログで瞑想について書くべきか悩みましたが、ヴィパッサナー瞑想が予防医学として高い価値を秘めていることを実感したため、思い切って書くことにしました。 長文になりますがぜひ最後まで読んでみてください。 瞑想はいくつもの観点から分類することができると思うが、心の問題の対処方法という観点から2種類に分けることができる。1つは内部に様々な問題を抱えた心と向き合うのではなく外部をコーティングする方法で、もう1つは内部に様々な問題を抱えた心と向き合い問題を一つ一つ解消していく方法である。 ヴィパッサナー瞑想は後者の瞑想方法であり、ブッダが菩提樹の下で悟りを開いた時に実施していた瞑想方法である。悟りを開いた後のブッダは神になったわけではなく、この瞑想で悟った内容とこの瞑想方法自体の2つを人々に説いて回ったといわれている。この2つが揃ったまま伝わっていったのがミャンマーやタイを中心とする東南アジアの上座部仏教であり、瞑想方法が抜け落ちて悟った内容が伝わっていったのが中国や日本の大乗仏教である。だから日本で多くの年配の人々が毎日お経を読み、若い人々がお経の勉強をしていると「若いのに関心ねぇ」といった反応が返ってくるのと同じように、ミャンマーでは多くの年配の人々が毎日瞑想をし、僕が「ミャンマーに瞑想をしにきた」と言うと「若いのに関心ねぇ」といった反応が返ってくる。今回はそういった瞑想が人々に受け入れられている国で瞑想をしてみたいと思い最後の旅の目的地をミャンマーにした。 実施したことはとてもシンプルである。それは集中力を高めること・観察力を高めること・高まった集中力と観察力を使って身体を観察することの3つだけである。その3つを徹底的に実施するために、10日間、話したり・目を合わせたり・身振り手振りといったコミュニケーションを一切とらずに、1日合計12時間座る環境に身を置いた。 集中力を高める 多くの人々がそうだと思うのだが、僕は一つのことに集中することがなかなかできない。試しに目を閉じて一つのことだけに集中してみると、1分も経たないうちに、なにやらいい匂いがただよってきてお腹がすいてきたり、足がかゆくて我慢できなくなったり、昨日の楽しかったこと、今日やるべきこと、そもそも自分は目を閉じていったい何をやっているんだといったつっこみ、目を閉じているせいで訪れる眠気などが次々と沸き起こってきて、集中し続けることがなかなかできない。これは五感に対する外部刺激や記憶などの内部刺激が常に心を刺激しており、それに対して常に心が反応してしまうためである。ところが集中する能力が全くないのかというとそうではなく、好きな本を読んでいるときや、好きなテーマについて考えているときや、旨いお鮨を食べているときなどにはそれ以外の外部や内部の刺激に振り回されることなく、その対象にきちんと集中し続けることができる。つまり集中する対象以外の刺激にいちいち反応しないという既に保有している能力を高めることで一つのことにきちんと集中できるようになる。 具体的には、4日間で40時間程度目を閉じて座り体の一点を徹底的に集中して観察し続けるだけである。自動車の教習所に通う人たちの多くが4日間車の運転をし続ければ4日前よりは確実に車の運転が上達するように、4日間身体の一点を徹底的に集中して観察し続ければ4日前よりは確実に集中力が高まる。 観察力を高める 人間の身体では全ての場所で常に様々な出来事が起こり刺激が生じている。これは心理学的にも言われていることだが、心が全ての刺激に反応していては日常生活がおくれなくなるため、感覚にある程度の閾値を設定し、その閾値以下の刺激には心が反応しないようになっている。このような生き方を何十年も続けていると、例えば皮膚の上で普段何も出来事が起こっていないような錯覚に陥ってしまう。しかし実際には皮膚の上では様々な出来事が起こっている。例えば皮膚の上を風が吹き抜けていったり、その風で体毛がそよいでいたり、汗がじわじわにじみだしてきていたり、わずかなかゆみが生じていたり、はては電気が流れていたりもする。熱い鍋を平気でつかめる世のおかん達も生まれたての赤ん坊のころにはほんの少しの熱さにも敏感に反応していたはずなのだが、生きている間に徐々に刺激に対する反応の閾値が高くなっていき、多少の熱さなどには反応しなくなっていく。以前には満足していた刺激に徐々に満足できなくなり、より強い刺激を求めるようになるのもこの閾値が徐々に高まっていくためである。この閾値は高くするだけではなく低くすることもできる。この閾値を低くしていくと今まで気づいていなかった様々な出来事が体で起こっていることに気づき始める。この閾値を低くするということが観察力を高めることなのである。 具体的には、前述の集中力を高める際に観察力も同時に高めていく。やはり4日間身体の一点を徹底的に集中して観察し続ければ4日前よりは確実に観察力も高まる。 高まった集中力と観察力を使って身体を観察する ここからがやっと本題です。 ヴィパッサナーとは「洞察」「あるがままに観る」という意味のパーリ語で、ヴィパッサナー瞑想とは、要するに高まった集中力と観察力を使って自然の摂理の現れである自分の身体をあるがままに観察し続けて、自然の摂理を理解するというものである。それが瞑想だといわれるとなんだか拍子抜けするかもしれないが、観察する以外に何もすることはない。しかし今回自分の身体を観察し続けることで、自分の身体の中にどのようにストレスが蓄積しているのか、そのストレスがどのように身体に影響を与えているのか、そのストレスはどのように解消されていくのかを体感することができた。本来ヴィパッサナー瞑想はストレスに関する事柄だけを対象にしているわけではないが、ヴィパッサナー瞑想が予防医学として高い価値を秘めていることを実感したのはこのストレスに関する事柄についてであるため、ここからはストレスに関する事柄を中心に自分で実感したこととそこから推測したことを書いていく。 まず始めに右足を観察した際の出来事を書いていく。 実はヴィパッサナー瞑想を始める3週間前にインドで結婚式に参加したのだが、ボリウッドミュージックにあわせて踊り過ぎ、段から足を踏み外して右足首を捻挫した。捻挫した瞬間のあまりの衝撃と一瞬でテニスボールくらいに腫れ上がった足首を見て骨が折れたと思ったが幸い骨に異常はなかった。そして3週間でなんとか腫れは治まり傷も癒えた。ただし3週間足首をかばいながら歩いていたため右足の様々な場所の筋肉が固くなり膝まで痛くなっていた。 そのため完全な状態で座ることはできなかったが、なんとか4日間かけて集中力と観察力を高め、4日目の午後から身体の観察を始めることができた。いつもあぐらをかいて座っていたのだが、観察を始めてしばらくすると決まって右足の甲が痛み始めて観察がうまくいかなくなった。そこで右足の甲を観察することにした。観察してみると右足の甲の痛くなる部分の筋肉が他の部分とは異なり固くなっていることに気がついた。そしてその固くなり痛みを発している部分を反応することなく観察し続けると身体の鼓動にあわせるように徐々に痛みが増していきピークを迎えた後に徐々に痛みが減っていき最後には痛みがなくなり筋肉の固さもなくなった。そしてあぐらをかいていた足が全体的に緩み座り心地が良くなった。 推測するに、これは足首を怪我したために脳が右足をかばうために右足の様々な筋肉にこれ以上肉体的に踏み込んではいけないというストッパーのようなものつまりストレスを蓄積させていたのだと思う。この筋肉に蓄積されたストレスは何らかの負荷がかかったり脳からの刺激があった際に発動し筋肉を収縮させて固くさせるのだと思う。このストレスは足首の怪我が治るまでは必要なものだが、足首の怪我が治った後にも残り続けているとすれば不必要なものになってしまう。ではどうすれば身体がこのストレスはもう必要のないものだと気づき解消することができるのだろうか。それはストレスの発動に反応をしないということなのだと思う。ストレスの発動に対して身体を動かして足首をかばったり痛みを我慢して別の筋肉に力を入れたりといった何らかの反応をしてしまうと、身体がそのストレスはまだ必要なものなのだと判断してしまい、そのストレスを引き続き蓄積してしまうのだと思う。しかしそのストレスの発動に対して反応することなくただ観察し続けていると、身体がそのストレスはもう必要なものではないのだと判断して、そのストレスを緩め最終的には消失させるのだと思う。 しかし右足の痛みはそれだけでは終わってくれなかった。右足の甲の痛みがとれると次は右足の太ももの付け根が痛み始めた。これはあぐらをかいていた足が全体的に緩んだ結果、次にストレスが蓄積されて筋肉が固くなっている部分に負荷がかかり痛み始めたのだと考えられる。この痛みも同じ要領で観察し続けると、甲の場合と同じように徐々に痛みが増していきピークを迎えた後に徐々に痛みが減っていき最後には痛みがなくなり筋肉の固さもなくなった。そしてあぐらをかいていた足はまた全体的に緩みさらに座り心地が良くなった。すると今度は先ほど緩んだ甲の筋肉の一つ外側が痛み始める。それを緩めると今度は先ほど痛んだ太ももの筋肉の一つ外側が痛み始める。これを延々繰り返していくと最終的に右足の全ての筋肉が緩み何の違和感もなく座り続けられるようになった。そして右膝の痛みもなくなってしまった。 以上の観察から、右足首の物理的な怪我を原因として様々な筋肉にストレスが蓄積され、その結果右膝の痛みが生じていたこと、筋肉に蓄積されていたストレスを解消することでその右膝の痛みがなくなったことを実感した。 次に肩を観察した際の出来事を書いていく。 僕の肩周辺には物理的な怪我はなく、ヨガを続けていることもあり、肩周辺の筋肉には余分なこりはない、つまりストレスは蓄積していないと考えていた。しかし高まった集中力と観察力で丁寧に肩周辺の筋肉を観察していくと、右足ほど露骨ではないがかすかに固くなっている筋肉があることがわかってきた。この固くなっている筋肉を観察していると右足の時と同じように身体の鼓動にあわせるように徐々に固さが増していきピークを迎えた後に徐々に固さが減っていき最後には固さがなくなった。この肩のわずかに固くなっている様々な筋肉を観察する作業を延々繰り返していくと最終的に肩の全ての筋肉が緩み何の違和感もなくなった。肩の力が全くない状態の心地良さは驚嘆に値する。あまりにも違和感がないために逆にそわそわしてしまうほどである。 推測するに、これは物理的な怪我がなくても脳が身体をかばうために肩の様々な筋肉にこれ以上心理的に踏み込んではいけないといったストッパーのようなものつまりストレスを蓄積させていたのだと思う。この筋肉に蓄積されたストレスを観察していると、ストレスが脳から刺激がきたと勘違いして発動し筋肉を収縮させて固くさせるのだと思う。しかし右足と同様にそのストレスの発動に対して反応することなくただ観察し続けていると、身体がそのストレスはもう必要なものではないのだと判断してそのストレスを緩め最終的には消失させるのだと思う。 しかも肩が快適になるだけでは終わらなかった。僕は中国で働いていた頃から時折左手のひらにしびれを感じるようになっていた。なんらかのストレスが原因だとは感じつつも日常生活に支障をきたさなかったので特に気にしていなかったのだが、この手のひらのしびれが肩の力が抜けた後になくなった。 推測するに、これは肩の力が入り続けていた結果、腕全体が微妙に通常の位置よりも高い位置にあったのだと思う。そのため常に腕全体が緊張状態にありそれが手のひらのしびれの原因になっていたのだと思う。 以上の観察から、物理的な怪我がなくても肩の様々な筋肉にストレスが蓄積され、その結果左手のひらのしびれが生じていたこと、筋肉に蓄積されていたストレスを解消することでその左手のひらのしびれがなくなったことを実感した。 筋肉に蓄積されたストレスを解消するという表現は耳慣れない言葉であるためイメージがわきにくいかもしれない。そこでそれらの関係をストレッチとヨガと瞑想の3種類の観点から説明しておく。 ストレッチは、身体を温めることはできるがストレスが蓄積されている筋肉を伸ばすだけの行為で、この場合は形状記憶筋肉のような感じでストレスが筋肉をもとの固さに戻してしまう。ヨガは、ストレスが蓄積されている筋肉を伸ばすことでそこに違和感を感じ取りそれを身体の側からアプローチしてそのストレスを解消していく行為で、この場合は筋肉をもとの固さに戻してしまうストレスが解消しているため筋肉が緩んだままになる。瞑想は、ストレスが蓄積されている筋肉を伸ばすことなくそこに違和感を感じ取りそれを心の側からアプローチしてそのストレスを解消していく行為で、この場合も筋肉をもとの固さに戻してしまうストレスが解消しているため筋肉が緩んだままになる。 これは実感レベルの話だが、ヨガを10日間した後も筋肉は緩むが、瞑想を10日間した後のほうが筋肉はより緩む。 多くの人が普段何気なく「ストレスがたまった」という言葉を使うが、実際にストレスが蓄積されていることを実感すると、こういう言葉が的確に創られていることに驚かされる。 以上、右足と肩を観察することで、随意筋の中にストレスが蓄積しており、そのストレスが身体に様々な影響を与え、そのストレスを解消することでその影響も解消されることを実際に体験した。僕が今回明確に体験できたのはここまでであるが、さらにその先の体験も少しすることができた。それは身体の観察を徐々に外部から内部に向けていくと、胃や心臓や脳といった内臓を取り巻く不随意筋の中にもストレスが蓄積されていることに徐々に気づくようになったことである。ネットワークがある程度単純な随意筋に蓄積されたストレスでさえ身体に様々な影響を与えることを実感したことから、ネットワークがより複雑な不随意筋に蓄積されたストレスが身体により様々な影響を与えることは容易に推測できる。「とんでもない失敗をしてしまった」「ここはぐっと我慢しよう」「これ以上人前で話したくない」そういったストレスが知らぬ間に随意筋や不随意筋に蓄積していき、様々な筋肉が少しずつ緊張していき、それが複雑に絡み合ったネットワークを通じて身体の様々な部分に影響を与え、痛み・しびれ・だるさ・微熱・不眠等の原因になっているのではないだろうか。しかも我慢する際にお腹に力を入れる人もいれば肩に力をいれる人もいるように、ストレスをどの筋肉に蓄積するかは人それぞれの癖があるために、どの筋肉のストレスと身体の不調が対応しているかを特定するのは現代医学でも至難の技なのだと思う。このことはヴィパッサナー瞑想でも同様で、特定の身体の不調を解消することを目的にヴィパッサナー瞑想を実施することはできないと言われているし、そのような目的を持ってしまうことで反応せずに観察をすることが困難になる可能性があるため、特定の身体の不調の治療目的でヴィパッサナー瞑想を実施することは禁じられており、治療医学としては向いていないのかもしれない。しかし毎日ヴィパッサナー瞑想を実施することで、筋肉に蓄積された様々なストレスを解消していくことはできるし、それに連動して身体の様々な不調を解消していくこともできる。また筋肉にストレスが蓄積されていること、そのストレスは自分自身で解消できることを観察し実感するようになると、次にどのように筋肉にストレスが蓄積していくのかということ、またどのようにすれば筋肉にストレスが蓄積しないのかも観察し実感することができるようになっていくと考えられる。これらの点がまさにヴィパッサナー瞑想が予防医学として高い価値を秘めていると考えられる理由である。 以上僕の実感したこととそこから推測したことを書いてきました。この体験はあくまでも僕個人の体験であり、今のところ科学的には証明しきれない体験です。そのため全ての人に受け入れられるものではないのかもしれません。しかし、世の中の全ての事象の内で科学的に証明できていることがほんの一部でしかなく、そのため多くの科学者が日々様々な実験を繰り返していることは誰もが知る所だと思います。これらの科学者の一部は自然界の事象を観察し、仮説をたて、実験を繰り返して科学的な証明をしながら、人間にとって価値のあるものを見いだしてきました。それは言い換えると、科学的に証明されていようがいまいが自然界の事象は存在しており、その中には人間にとって価値のあることが多く眠っているということなのだと思います。そして太古の、我々よりも自然を実感レベルで理解していた世代の代表であるブッダが徹底的に自然の摂理の現れである身体を観察して悟った内容もそのための瞑想方法も、まだ科学的には証明されていないかもしれないけれど、人間にとって価値のあるものなのだと思います。 この文章が、健康に関して困っているたった1人の人にでも役に立てれば幸いです。 寛
by noTnoP
| 2012-03-04 10:00
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